幽閉、若しくは彷徨 百九十七

April 14th, 2014

――「先験的」な《悪》とは?

――此の世に出現した《もの》は既に《悪》といふ事さ。

――それは聞いたよ。俺が訊いてゐるのは、「先験的」な《悪》とは何なのかといふ事さ。一体全体「先験的」な《悪》は、《吾》は乗り越えられる《もの》なのかね? 仮に「先験的」な《悪》を「現存在」では逆立ちしても乗り越えられないとするならば、何故に《吾》は「先験的」に《悪》と決め付けられるのかね?

――先に言ったやうに、《吾》は既に《存在》してゐるが故にそれが《悪》なのさ。今生を生きる《吾》は果たして善行を行ふ事は殆どなきに等しいだらう? 大概の《吾》はその日を生きるのに精一杯で、《他》の事などにかまけてゐる暇などない筈だぜ。あるといふ奴に限って、ちゃんと生きてゐない場合が、殆どだぜ。《吾》が《吾》の事にかまけるのに精一杯なのが人生といふ《もの》だらう。

――へっ、《吾》とは人間に限った事ぢゃないぜ。此の世に《存在》する森羅万象が《吾》足り得る筈だかね。それで、「先験的」な《悪》の正体とはそれっきしのことかね? ちゃんちゃらをかしい! 《吾》は《吾》の事で精一杯といふのが実情とはいへ、しかし、そんな《吾》の事情にお構ひなしに《他》と関はる生き《もの》の筈だぜ。

――其処に《悪》が育まれるのさ。

――はて、《吾》が《他》に関はる事が《悪》とは、初耳だぜ。《吾》が《他》と関はる何が《悪》といふのかね?

――《他》は、《吾》のあるべき姿の一つの解なのさ。《吾》を追ひ始めた思春期の頃の《吾》は、道に踏み迷ひながら、《吾》を追ふ事を已めやしない。その状態にある《吾》は藁をも掴む思ひで、《他》を見るのだが、その《他》が《吾》の追ひ求めるあるべき《吾》の一つの解だとは、これっぼっちも気付かずに、《吾》は《他》となあなあの関係を結ぶ。その中途半端さが、そもそも《吾》に対しても、《他》に対しても失礼千万なる事なのは解かると思ふが、しかし、実際に《吾》が《他》に出合ふ場合、《吾》のあるべき姿としては《他》を受け容れる度量を《吾》は示す事すらせずに、つまり、怠けてあるに過ぎず、《吾》は視野狭窄の状態に陥ってゐるのだ。つまり、《吾》は《吾》に首ったけの状態さ。そもそもそれが《悪》だと言ってゐるのだ。

――《吾》が《吾》に首ったけが仮に《悪》だとすれば、どんな《吾》でも、その罪を犯してゐる筈で、しかし、《吾》が成長するには、《吾》が《吾》に首ったけの時期がなければ《吾》は成長しないのではないかね?

――それが甘ちゃんの言ひ分なのさ。《世界》は一時も待って呉れやしないぜ。

――しかし、《世界》は如何なる《吾》をも受け容れる度量があるぢゃないか。例えば、憎まれっ子世に蔓延るではないが、《悪》こそが此の《世界》には好んで受け容れるぢゃないかね?

――だから、言ったらう? 《吾》は「先験的」に《悪》だと。《吾》が既に《悪》故に《世界》は《吾》を無条件に受け容れて呉れるのさ。

――しかし、《悪》が続いたためしはないぜ。

――また、《善》も続いたためしもないぜ。極論を言へば、《善》は儚いのさ。《悪》に比べれば圧倒的に短いSpan(スパン)でしか《存在》しない。つまり、此の世は《悪》には寛大だが、《善》には不寛容とは来てゐる。つまり、《吾》は「先験的」に《悪》なのさ。《悪》故に此の《世界》は《吾》を無条件に受け容れるのさ。

――では何故に赤子は可愛いのだ?

――此の世の《存在》の中で最も悪びれてゐないからさ。しかし、赤子は既に《悪》なのだ。大人に為る可能性がある故に既に《悪》なのさ。

――その《悪》って論理は、お前の自己慰撫でしかないのぢゃないかね?

――さうだ。自慰行為に過ぎない。だって、《吾》は《吾》をどうしたって正当化したくて仕方ない。しかし、それは既に《悪》なのさ。自己を正当化する故に、《吾》は「先験的」に《悪》なのさ。だって、《善》は自己を正当化する事は全くない筈だぜ。そして、「先験的」に《悪》でなければ此の世での《存在》は許されぬのだ。

(百九十七の篇終はり)
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轆轤首(ろくろくび) 六十六

April 13th, 2014

《吾》が《吾》であり、そして、《吾》でないといふ非=排中律が《吾》を言ひ当てる最も的確なLogosならば、《世界》に《存在》する因果律も見直されるべき《もの》なのかもしれぬのである。《世界》において仮に因果律が不成立ならば、その因は全て《吾》が担ふ筈なのである。《吾》とは「距離」が厳然とある《世界》において《吾》のみ《現在》にあり、《吾》以外は全て《過去》か《未来》のどちらかと言へると先述したが、外界たる《世界》が、しかし、一度も《現在》であったためしがないかと問へば、《世界》は《吾》とは全く無関係な時間が流れてゐる筈で、《世界》は《世界》として自律してゐるに違ひないのである。それを仮に「宇宙史的時間の流れ」と言へば、《吾》の《生死》は、「宇宙史的時間の流れ」から見れば、ほんの一寸の出来事でしかなく、たまゆらに現出する《吾》といふ非=排中律なる《存在》は「宇宙史的時間の流れ」といふ悠久の時の《存在》の永劫回帰的な様相を其処に見出だす事で、徹底的に《世界》から孤立する《現在》であり続ける《吾》を断念するのである。絶えず《現在》であり続ける事を断念した《吾》とは、正覚せし《もの》とは違ふ《存在》に違ひなく、その《吾》のみ非=排中律の空理空論から遁れるのかもしれぬのである。それは詰まる所、《現在》である《吾》を追ひ、永劫に続く鬼ごっこを已めた《存在》に違ひなく、その途端に《吾》は《吾》から遁れる事を已めて、《吾》といふ何かが現前に現はれるに違ひないのだ。その為にも《吾》は出来得る限り早く、《吾》を追ふ矛盾を断念すれば、《吾》は、多分、何《もの》かに為り得、そして、それを以ってして『《吾》は《吾》だ!』と《五蘊場》に広がる渺茫たる虚空にその《吾》なる《もの》を彫り出す事が出来るのであり、断念しなければ、《吾》は何時迄経っても、《吾》は不確定な非=排中律、つまり、《吾》は《吾》であり、《吾》は《吾》でないといふ《現在》の有様に振り回される《存在》に堕すばかりなのである。何故にさうなるのかと言へば、そもそも《現在》は浮動な《もの》であり、それに対峙するには《吾》は肚を括らなければ、つまり、『《吾》、《吾》なる事を断念す』と浮動する《現在》における非=排中律的な有様にある《吾》との間に、程よい「距離」が出現するのである。つまり、《吾》と《異形の吾》との分離に成功すれば、《吾》とは、去来現を自在に行き交ふ解放感に包まれ、至福の時を堪能する筈なのである。

――へっ、それは丸っきし見当違ひだぜ!

 と、不意に我慢出来ずに言挙げせし《吾》がゐたのであった。

――それは何故にかね?

――決まってゐるだらう? 《吾》は未来永劫に亙って《吾》である事を已められぬ筈だぜ。

――馬鹿な!

――しかし、《吾》とは、そもそも地獄の生き《もの》だらう?

 と言挙げする《吾》の地獄といふ言葉を前にして、《吾》は口を噤むしかなかったのである。確かに《吾》は《現在》と言へば聞こえはいいが、それが地獄の一様相でしかない事を薄薄感じてゐた《吾》にとって、その《異形の吾》の言挙げに一瞬たぢろぎ、さうして不敵な笑みをその顔に浮かべるに違ひないのだ。

――つまり、地獄では《吾》は《吾》である事を已められぬ――か。

 つまり、地獄の責苦を十二分に味はふには《吾》は絶えず《吾》でなければ《吾》をして地獄の責苦を受ける筈はなく、たまゆらでも《吾》が《吾》でなくなるとするならば、地獄を彷徨ふ《吾》にとっては、それは 卒倒を意味し、その無=自意識の状態である《吾》は、その時のみ《吾》である事に胡坐を舁くのである。卒倒が非=排中律の止揚であるならば《吾》は意識を失った無=自意識の境地にある――これをして《吾》は《吾》と呼べない――《異形の吾》が憑依した何かでしかないのである。その象徴が多重人格に違ひないのである。

(六十六の篇終はり)
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水際 二十八

April 7th, 2014

――『ちぇっ』って、それでは闇の中の、つまり、深海生物がGrotesqueなのは、どうして《水》と関係してゐるといふのかね?

――先づ、《水》は変幻自在にその姿を変へる。

――へっ、それは《水》の事ぢゃないかね? 私が訊いてゐるのは、闇の中で深海生物がGrotesqueなのは、何故なのと訊いてゐるんだぜ。

――だから、先づ、《水》は、変幻自在な己が何《もの》なのか全く解からぬのさ。《存在》の端緒は先づ、其処から始まる。

――つまり、何《もの》が自身の事が解からぬ《水》の《存在》が何事にも先立つ、つまり、「先験的」といふ事だね。

――そして、その何《もの》なのか自身の事を定義出来ない《水》が、これまた何《もの》も見えぬ闇に没すると、其処は渾沌に違ひないのだ。

――その証左は?

――《水》の癖が渾沌だからさ。

――それぢゃ、何の答へにもなってゐないぜ。

――《水》はその分子Levelで見ても、プラスイオンにもマイナスイオンにも変容可能な、森羅万象の中でも稀有な《存在》だといふ事が一点。

――《水》は稀有かね?

――ああ。とっても奇妙な《存在》。全く以って稀有な物質なのだ。何せ、それに限度があるにせよ、如何なる《もの》も呑み込む度量があるからね。そして、渾沌が《水》の癖と来てゐるから始末に負へぬのだ。つまり、《水》は、何《もの》も生む素地を「先験的」に賦与されてゐるのさ。その《水》が闇にあるとするならば、《水》によって《存在》する事を許された、つまり、《水》の癖たる万物を呑み込む癖故に、此の世に出現したその《存在》は、先づGrotesqueな筈なのだ。

――まだ、答へになってゐないぜ。何故に闇の中の《水》により育まれた《存在》がGrotesqueなのか、その根拠は依然として不明なままだ。

――かう言へばいいかな。つまり、眼球型な進化をしなくてよい環境といふ闇の中の《水》は、《存在》を闇に最も適応した《存在》のみを《存在》させる。それは、眼球型進化、つまり、光溢るる中で《存在》する《もの》には「美」、つまり、眼球で獲物を追ふ事が可能な光溢るる《水》の中で《存在》するには、「見た目」が《存在》の大きな要素となるが、闇の中では、その「美」は一切関係なくなる。つまり、「美」といふ束縛から解放され、《存在》は《水》の癖、つまり、渾沌を体現した、何故って、《水》に許された生き《もの》しか、此の世に《存在》しないからね。そして、《水》無しには生き《もの》の出現はほぼ可能性零だ。だから、闇の中の《水》に許された《存在》は、《水》が「先験的」に渾沌としてゐる故に、生き《もの》はGrotesqueに為り得るのさ。否、Grotesqueに為らざるを得ぬのだ。

――まだ、根拠に乏しいぜ。先づ、《水》の癖って何だね?

――何《もの》も呑み込む、換言すれば、溶け込む《存在》で、固体の方が液体よりも軽いといふ、他の物質ではあり得ぬ《存在》の仕方をする《もの》で、《水》無しに生命は誕生不可能なのさ。

――そんなに《水》とは 奇妙奇天烈な物質なのかね?

――ああ。先づ、固体が液体よりも軽い物質は《水》しかあり得ぬ。それ故に、氷の下ですら、生き《もの》は生存可能なのさ。氷が断熱材の役割を果たして呉れるので、氷の下の闇の《世界》もまた奇妙な、そしてGrotesqueな生き《もの》に満ち満ちてゐる豊饒なる《世界》が広がってゐるのが、南極の巨大な棚氷が割れて無くなった事で、これまで解からなかった氷の下の闇の海の《世界》が、生き《もの》に満ちた《世界》であることが判明した。

――つまり、光の中にある《世界》では「美」が生存競争を生き抜く大きな要素として組み込まれてゐるが、闇の《世界》では、《水》の癖たる渾沌が《存在》の大きな要素になる……か。――ふむ。

(二十八の篇終はり)
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幽閉、若しくは彷徨 百九十六

April 6th, 2014

――子を産む事こそ、此の世で最も利己的な事象ではないかね?

――いいや。子を持たぬ事の方が尚更利己的だ。何故って子を持つとは、それで既に子を育てなければならぬ「責任」が生じる。それ故に《吾》は子に尽くさねばならなくなる。生活の中心が子になる。つまり、《世界》の中心は《吾》ではなく、未だ寝返りも出来ぬ幼子が《世界》の中心になるのさ。さうして《吾》は《吾》といふ《存在》の哀しさを少しは味はふのさ。

――独り身も大概哀しい《存在》だぜ。独り身、つまり、単独者は、単独者なればこそ、深淵を覗き込む「苦悩」を背負はざるを得ぬのぢゃないかね?

――そんな《もの》は、四六時中子に振り回されるといふ事をに比べれば屁でもないぜ。つまり、《世界》は《吾》の《もの》ではなくなってゐて、子といふ《他》の《もの》といふ、《吾》にとってはこれ以上の屈辱はない苦杯を嘗める事で、やっと親子共々、《世界》の中で生き伸びてゆくのさ。その《世界》が徹底して《他》を中心に《存在》するといふ事を知る事で、やっと《吾》が見出せるのさ。

――それは詭弁でしかないぜ。此の世に《吾》以外の《悪》を生んでどうする?

――へっ、《吾》とは《悪》かね?

――勿論! 《世界》において《吾》は塵埃でしかない。

――その塵埃が悔ひ改めて、子に尽くすのだぜ。少しは罪滅ぼしにならないかね?

――《吾》とはそもそも《悪》といっていい《存在》だ。何故って、《吾》は浪費するのみで、未来を食ひ潰すどうしやうもない《存在》なのだ。

――それは、つまり、「原罪」といふ事かね?

――「原罪」と言っても構はぬが、「原罪」といふと誤解すると思ってね。つまり、《吾》といふ《存在》は《存在》その《もの》が呪はれてゐるのさ。

――それは、未出現の《もの》共が『早く《吾》を出現させよ!』と喚き出してゐる故に、つまり、《吾》は《存在》するだけで既に呪はれた《存在》といふ事かね?

――ふっ、順番待ちね……。下らぬ。此の世に出現した《もの》は必ず滅する。それで「原罪」に対して贖罪するに等しいに違ひない。そして、《生》の時間は殆ど苦悩に没する。それは一度嵌まり込んだならば、最早抜け出せぬ底無し沼なのさ。しかし、そんな哀しい《存在》の《吾》が子を持つといふ事で「時空」は、子を中心に巡り出すのだ。それは取りも直さずに《吾》の《存在》の非力さのみを《吾》は思ひ知らされる。さうして《吾》は《生》にありながら少しづつ贖罪してゆくのだ。極論を言へば、此の世の生き《もの》は子を残す事でその《生》を終へるべきなのさ。そして、少なからぬ生き《もの》は子を残せば、後は死すのみで、それを摂理として受け容れてゐる。人間のみが、例外の如く看做してゐるが、「現存在」は、子育ては一生終はらぬと来てゐる事を知らぬのだ。子育てに失敗し、子が悪者になった場合、その咎は親もまた等しく受けてゐるのだ。また、逆縁にも親は堪へ得ねばならぬ《存在》として、此の世にあるのさ。さうして、子が何歳であらうが親子関係は終はらない。上っ面だけは親子共々、ある年齢が来れば「独立」してゐるように見せるがね。

――子を持つに至った《吾》は、子育てを通して尚、成長する筈だが、それが未出現の《もの》に対する贖罪ではないのかね?

――《吾》とはさっきも言ったやうに《存在》その《もの》が既に《悪》だと言った筈だぜ。

――つまり、お前は性善説は否定するといふ事だね?

――ちぇっ、だから「原罪」といふ言葉は遣ひたくなかったのだ。俺が言ってゐる《悪》に関しては《吾》の《存在》が性善説を取らうが性悪説を取らうが全く無関係なのだ。

――ではお前が言ふ《悪》とは何かね?

――《世界》にあるといふ事さ。

――だからその《世界》にあるといふ事の何が《悪》なのだ。

――あるといふ事その《もの》が既に、つまり、「先験的」に《悪》としか言ひやうがない。

(百九十六の篇終はり)
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轆轤首(ろくろくび) 六十五

March 31st, 2014

 渺茫たる眼前の闇を凝視しながら、闇が《水》の如く流出してゐる裂け目を探すその訳は、暗闇の中で女陰を弄る様を髣髴とさせなくもないのであるが、仮令、闇の中に必ず《存在》する裂け目が女陰の象徴に過ぎぬとした処で、それはフロイトの焼き直しでしかなく、《吾》の《存在》を《生》と《性》と《死》へと還元し、身も蓋もないフロイト流の精神分析とは一線を画す、闇の裂け目――仮令、それが女陰の象徴だとしても――《異形の吾》の誕生を祝ふ予兆のやうに、闇をしっかと凝視し、此の世に屹立する《吾》の首は、その裂け目へと吸ひ込まれるに違ひないのである。《吾》は身動ぎ出来ぬ事を伏せながらも、《生》きてゐるのであれば、まるでさうでなければならないかのやうに此の世の決まった立ち位置に屹立する事を已められぬ《吾》故に、闇にばっくりと大口を開けてゐるに違ひない裂け目へと首のみがぐんぐんと伸び行き、仕舞ひには《吾》の首のみが闇の裂け目にすっぽりと嵌まり込み、《吾》は、『生まれ変わり』の儀式をひっそりと執り行ふに違ひないのだ。さうして《吾》は《吾》の伸び切った首をずばっと斬り落とし、尚も渺茫たる《五蘊場》の虚空を凝視してゐる首無しの《吾》は、自らの拳で《五蘊場》に残されしその体躯を撲殺するのである。

 一方で、闇の裂け目にすっぽりと嵌まった首のみの《吾》は、『生まれ変はり』のひっそりとした祝祭を執り行ひつつ、その首のみの《吾》は恍惚の体で《吾》に酩酊してゐるに違ひないのある。つまり、《吾》とは首のみの機能ばかりが増幅された「脳絶対主義」の如き《世界》の中で、存続するには恰も首のみが伸びた轆轤首に化した《吾》の有様がある一方で、酩酊を求めて渺茫たる《五蘊場》の虚空の中に身動ぎ出来ぬ故に、虚空の闇の裂け目へと首のみが伸び行く轆轤首が《吾》の内部には《存在》するといふ事に、

――へっへっへっ。

 と嗤ひながら、その矛盾したLogosに妙に納得するのであった。《吾》は突き詰めれば二柱の《吾》たる轆轤首といふ《神》にも似た《存在》に行き着くのである。もしかすると、轆轤首は三柱、四柱、……、∞柱、《存在》するのかも知れぬが、《吾》を最も欺く《もの》が何を隠さうこの《吾》であるならば、今の処、二柱の轆轤首には行き着いたと言へなくもないのである。

――へっへっへっ、それは 詭弁といふ《もの》だぜ。

――詭弁で構はぬではないかね?

――馬鹿な! 《吾》語りをするのであれば、詭弁は徹底的に排除されるべき《もの》であり、さうしなければ、全く以って空虚な空論に、つまり、戯言でしかなくなるんだぜ。

――それで構はぬではないか? 《吾》とは所詮《吾》為らざる《吾》へと超越する《もの》故に、《吾》なんぞどうとでも語れる《もの》なのさ。

 と、ほとんど投げ遣りな自問自答にすべては語り尽くされてゐるのではあるが、然しながら、さうは言っても、やはり、《吾》は結局の処、《吾》を語る為に《存在》してゐるに違ひないと思ひ直して、自己満足する《吾》を、

――けっ、薄汚い性根を現はしやがって!

 と罵るのであった。

 さて、それでは《吾》として《異形の吾》が無数に《存在》する《もの》として語り出せば、その無数に《存在》する《吾》が全て轆轤首へと収束し、変態するに違ひないのである。《吾》を轆轤首といふ型枠に、つまり、皮袋に容れた《水》としてその変幻自在さを固着化した《存在》に過ぎぬと、∞柱《存在》する轆轤首たる《吾》を十把一絡げに看做してゐるに違ひないのであるが、しかし、《吾》とは、《吾》といふ《もの》へと収束する《もの》としか言ひ様がない、つまり、極論すれば、《吾》とは《吾》であり、また、《吾》ではない《異形の吾》であるといふ排中律に準じない《存在》が《吾》であるとしか言へぬのである。

(六十五の篇終はり)
Location: United States