身内が余命宣告を受けようが、
私は腹を据ゑて覚悟を決め、それを受容し、
残された日日をいつも通りの日常を過ごさなければ
死に行くものに対して失礼だらう。
それが日常といふものの正体なのだ。
とはいへ、死が残酷かといふと
そんなことは微塵もなく、
日常といふものには死が予め埋め込まれてゐるから、
死のない日常こそ不自然で、
一人の人間を看取る儀式は残されるものにとっては
死を受容するために必要不可欠で、
其の残されし日日で思ひ出を噛み締め、
来し方行く末に思ひを馳せながら、
やがて此の世から去るものに対しての汲めども尽くせぬ思ひを
一粒の涙に収斂させ、
然し乍ら、見送るときは笑顔で見送らうと腹を決めてゐる。
然もなくば、私は死に行くものに対して
失礼極まりないことをして見送ることとなり、
死に行くものに対して此の世に心残りを抱かせたまま死へ出立させることは、
死に行くものに対して残酷な仕打ちでしかない。
この私の姿勢が薄情と罵られようと、
私は腹を据ゑ、それらの誹りも受容する。
当の本人は、思ふに以外とさばさばとしてゐて、
例へば武田泰淳の死に様に習ふかのやうに
最早自力で立ち上がれなくなるまで、
病院にも行かず、
南無三と身動きできなくなって病院に行き、
入院十日目に死する、そんな死に様を望んでゐるのかもしれぬ。
ともかく、一人の人間が死するといふことは
葬儀に急かされ、死んだ後はゆっくりとお別れをする暇もなくなるので、
今のうちに静かにお別れをしておき、
私の日常は微塵も崩すことなく、
過ごすことが、
当の本人にとっての一番の餞であり、
釈尊の慧眼である生老病死の苦を本人も覚悟してゐる筈で、
明日世界が滅びようともいつもと変はらぬ日常を送る如くに、
残されし日日をいつも通りの日常を繰り返すことで、
私は死に行くものを見送りたい。
さうすることが、
当の本人にとっても此の世の生を肯定出来る端緒となるに違ひなく
それが絆といふものなのだ。
それは死後も思ひ出となって繋がってゐるものなのだ。